豊臣秀吉が整備した太閤下水

1583年(天正11年)。

豊臣秀吉が大阪城の築城を開始しました。

汚水や雨水をどう処理するかは古今東西を問わず、都市の重要な課題であり、

秀吉も新都市・大坂を建設する際、そうした水問題を重視していました。

特に戦で水攻めを得意としていた秀吉は、淀川で治水を手がけるなど、

「水」の扱いに卓越しており、『太閤下水』というものを作り出しました。

 

太閤下水は、道路に面した住宅や商店の裏側に下水溝を掘り、堀川につなげます。

ふだんは堀川に汚水を流していますが、大雨の時は下水溝が放水路としての役割も

果たし、洪水を防ぐこともできる。という都市排水機能も確立しています。

 

太閤下水を有名にした要因。それは、寿命と規模です。

 

江戸時代になっても拡張され続け、石垣での強度化を測り、底をU字形にして

流れを良くして石ぶたをかぶせるなど改良を進めました。

その結果、太閤下水は修復を繰り返しながら、その役割をまっとうしつづけ、

いまでも船場地区などで、約20キロが実際に使用されており、もちろん、

現役では国内最古の下水溝となっています。

 

また規模ですが、1889年には長さが約350キロに達したといわれています。

なんと、東京から名古屋までの長さです。

どれほど複雑に、かつ隅々まで張り巡らされていたのがわかります。

 

太閤下水がつくられてから約400年。

シンプルながらも、下水溝としての機能をしっかりと備えたシステムは、

下水排水に多額の予算をかけることができない新興国にとっては、

非常に重宝される技術となるはずです。

 

古き良きものを活かしつつ、それをより良くしていく。

本来あるべきイノベーションのカタチだと思います。

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